稚内~ロシア領サハリンに日本の定期航路が開設され、気軽な海外ツーリングとして隠れた人気がありましたが、利用率の低迷により航路が2015年に廃止されてしまいました。
しかし、稚内市は、新しい会社による航路の復活を議会決定しており、今後の成り行きが見守られています。
再開の日のために、「サハリン単独単車旅」とタイトルし、サハリンツーリングのエピソードや情報を紹介します。
北緯50度線を超える
1940年までサハリン島は、中間地点である北緯50度線を境にロシア領と日本領の樺太に別れていました。
その年の8月にはメシア軍の南下により多くの血が流されたと言うのに、ロシアに統一された現在では、日本人の乗るバイクでも簡単に通り過ぎることができてしまうことが少し不思議です。
日本とロシアの立場の違い
ひときわ目立つ戦勝記念碑にはロシア語で「ソ連赤軍は、かねてからロシア領であった南サハリンを開放した」と書いてあります。
一方、日本が設置した日ソ友好の碑には、「尊き命よ、静かに眠れ。平和を祈り、あなたたちの死を心に刻む」と書かれていて、両国の意識の違いを感じずにはいられません。
サハリン北部の日本人墓地
長らくサハリンへの渡航は閉ざされていましたが、企業レベルでの繋がりはあったようで、油田開発のために日本人が訪れていました。
知人から紹介されたHさんは、数年前までサハリンで石油開発の仕事をしていたそうで、「サハリンに行くなら北部のダミール地区で日本人の墓を探して欲しい」とこんな依頼を受けました。
Hさんからの依頼
サハリン開発の先達に敬意を表し、一度墓参したいと考えていましたが、当時はダミールが何処にあるのか判りませんでした。
最近になってダミールはオハの近くにあることを知ったものの、今はもう訪れる機会がなく体力的にも経済的にも厳しいため、オハ行きを敢行する際には、ダミールの日本人墓地のことを調べて欲しい」
と依頼されたと言うわけです。
ダミール地区を散策
※ダミールの街
オハ市街地から約30分走ると、小さな集落に出くわしました。大きなマガズィーン(商店)があり、客にここがダミールであることを確認。
Hさんが来たいと熱望していたダミール地区は、二階建ての木造アパートとコンクリート製の団地、一戸建て住宅が点在する何の変哲もない田舎町でした。
「この辺りに日本人の墓はないか」と聞きたかったが、言葉が分からない。仕方なくロシア語で「イャポーニャ(日本人!)」を連呼。通じるわけがありません。
集落全体を見渡す高台にも行ってみましたが、墓らしいものや、土を盛ったような場所は発見できませんでした。
憶測ですが、日本人にすら忘れ去られている者の墓を、ロシア人が大切に守っているとは考えらないので、北樺太油田の犠牲者の墓は土に帰っていったと考えるのが適切だと思います。
ただし、Hさんがその事実を知り、私が彼の地を訪れたということで犠牲者の方々への供養になったとのではないか。そう信じてダミールを後にしました。
連載5回目(最終章)へ続く
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